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 伊藤博文と金沢別邸 豆知識シリーズNo.5 ~永島家と牡丹園~の写真

更新日:2026.03.01 伊藤博文と金沢別邸 豆知識シリーズNo.5 ~永島家と牡丹園~

更新日:2026.03.01

伊藤博文と金沢別邸 豆知識シリーズNo.5 ~永島家と牡丹園~

旧伊藤博文金沢別邸に併設されています牡丹園は、かつて野島にあった永島家の牡丹園を復元したものです。

永島家の永島祐伯(ながしま すけのり/号「泥亀(でいき)」)は、江戸時代前期に現在の神奈川県横浜市金沢区あたりで沿岸干拓・新田開発を行った人物です。
彼が主導した干拓・新田造成事業が、のちに横浜市金沢区の「泥亀」と呼ばれる地域名の由来になっています。
永島家は9代 約200年にわたって泥亀新田の千拓事業に取り組みました。その間、大地震や台風による高潮などいくども大災害を被りましたが、永島家は苦難に屈することなく干拓を続けました。

事業が軌道に乗ったのは、嘉永2年(1849年)、9代目亀巣(忠篤)のときで、新田67ヘクタール余と平潟に塩田2ヘクタール余が完成しました。
永島家は新田開発と製塩の成功によって近郷に並ぶもののない大富豪となりました。

永島家の牡丹は宝永4年(1707年)に幕府元老の酒井忠挙より数十株を拝領したのが始まりと伝えられています。長い間、「泥亀の牡丹」と呼ばれて親しまれ、大切に育てられていました。

牡丹園の美しさは天保10年(1839年)の『相中留恩記略』に「花の頃は壮観なり」と記され、徳冨蘆花もその著『自然と人生』に「金沢の牡丹を見に行った」と記すなど、江戸から明治・大正期にかけて多くの見物容が訪れました。
現在の金沢区の花「牡丹」はこの牡丹園に由来しています。

永島家と伊藤博文とは、9代目亀巣の孫の亀代司が博文の夏島別荘の建設を請け負ったり、滞在中の伊藤博文の世話係を務め、さらには博文の推薦により衆議院議員選挙に立候補して当選するなど深いかかわりのある間柄でした。

現在、永島家の屋敷跡は、住宅開発が進み、亀巣の偉業を讃える石碑(横浜市地域文化財)が残るのみとなってしまったため、旧伊藤博文金沢別邸の復元に伴い、その隣接地に牡丹園を整備しました。

金沢別邸の牡丹園では、約50種・200株が栽培され、4月が見頃となっており、毎年この時期に「ぼたんまつり」を開催してます。

見どころは何といってもこの時期に咲く、大輪の牡丹です。様々な色やかたちの牡丹を楽しむことができます。
また、海辺の庭園という立地もユニークです。

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旧伊藤博文金沢別邸(横浜市指定有形文化財)