更新日:2025.11.23伊藤博文と金沢別邸 豆知識シリーズNo.2 ~伊藤博文の改名~
伊藤博文と金沢別邸 豆知識シリーズNo.2 ~伊藤博文の改名~
伊藤博文(1841-1909)は、幼少期から青年期にかけて何度も改名しています。
これは単なる名前の変更ではなく、身分の変化・思想的転機・出世に伴う節目を示すもので、彼の生涯を理解するうえでも重要な手がかりになります。
| 時期 | 名称 | よみ | 主な背景・由来 |
| 幼少期 | 利助 | りすけ | 長州藩・周防国熊毛郡束荷村(現・山口県光市)に、百姓の子として出生。伊藤家の家名を継ぐ前の名。 |
| 少年期 | 俊英 | しゅんえい | 松下村塾に入る前後の名とされる。学問を志す過程で「俊英=すぐれた英才」の意を込め改名。 |
| 青年期 | 俊輔 | しゅんすけ | 16~17歳頃、吉田松陰門下生として松下村塾に入門した頃の名。維新志士仲間からは「伊藤俊輔」と呼ばれ、最も広く知られた通称。 |
| 維新期 | 春輔 | はるすけ | 文久・元治年間にかけ一時的に使用。幕末の変動期にあたり、潜伏・行動名として使われたと考えられる。 |
| 明治以降 | 博文 | ひろぶみ | 明治維新後、正式に改名。「博(ひろく)文(ふみ=学問)」は、文明開化・文治政治を象徴する名として自ら選んだもの。以後、政治家としてこの名で生涯を通す。 |
【利助】 伊藤家は長州藩の下級武士・足軽格でしたが、博文は庶民出身の林家の子として生まれ、のちに伊藤家の養子となります。この「利助」は、養家に入る前の俗名で、農民階層ではごく一般的な名でした。
【俊英】 藩校「明倫館」で学び始めたころの名とされています。才気を表す字「俊」を用いた学名に改めました。
【俊輔】 伊藤家(長州藩士・伊藤弥右衛門家)の養子となったことで、「俊輔」と改名。吉田松陰の思想に触れ、志士としての自覚を持ち始めた時期です。 「俊輔」は「すぐれた人を助ける」という意味を持ち、志士としての使命感を反映しています。この名で伊藤は英国密航や倒幕運動に関わることになります。 幕末の志士として「伊藤俊輔」は最も有名な名で、長州藩の尊攘派として活動しました。
【春輔】 維新直前の時期に、活動名として短期間使用したと伝わります。 「春」は新時代を示唆する文字であり、明治維新を予感しての改名とも考えられます。
【博文】 明治維新後、正式に改名(明治2年ごろとされる)。 この名は明治新政府の近代化政策・文治主義を象徴するものとして極めて象徴的。
以後、初代内閣総理大臣として、また伊藤家当主として公文書にも一貫して使用しました。
なお、この他に変名として「花山春太郎」など複数の名前が確認されています。明治維新前後の混乱期には、身分や立場、活動に応じて変名や偽名を使うことは一般的であり、特に志士たちの間では頻繁に行われていました。
改名を繰り返した人物は他にもいます。
【木戸孝允】 桂小五郎 : 長州藩士として活動していた際の名前です。 木戸貫治孝允 : 幕府の追跡を逃れる目的で、慶応元年に藩命で改名しました。 木戸準一郎 : 別名として使われました。
【西郷隆盛】 西郷吉之助 : 一般的な通称です。 大嶋三右衛門 : 文久2年(1862年)ごろ、藩命で苗字を変えています。 大嶋吉之助 : 奄美大島に潜伏中、さらに改名したとされます。 西郷隆永 : 本名でしたが、友人が父の名である「隆盛」を誤って登録したと伝えられます。
【勝海舟】 桂麟太郎 : 幼名・通称として広く知られています。 勝義邦 : 本名です。 勝安芳 : 明治維新後に改名しました。
明治維新前後の人物は
・幼名(子どもの頃の名)
・元服名(成人時の名)
・通称(社会的活動名)
・諱(本名)
・号(文人・隠棲時の雅号)
・法名(没後または出家後)
という具合に、人生の節目ごとに改名するのが一般的でした。
旧伊藤博文金沢別邸(横浜市指定有形文化財)