更新日:2025.11.05伊藤博文と金沢別邸 豆知識シリーズNo.1 ~伊藤博文と横浜・金沢~
伊藤博文と金沢別邸 豆知識シリーズNo.1 ~伊藤博文と横浜・金沢~
伊藤博文と横浜・金沢(現在の横浜市金沢区)との縁は、意外と知られていませんが、
実は彼の人生の中でも重要な時期に関わる「隠れたゆかりの地」です。
【ペリー来航時の三浦半島警護】
嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船が浦賀沖に来航して幕府に開国を迫りました。幕府は全国の大名に東京湾岸に警固の兵を出すよう命じ、長州藩も藩士を派遣することになり、伊藤博文は、少年隊員として三浦半島の警護にあたりました。伊藤はその時十五歳でした。三浦半島で警固の任務にあたっていた折、途中立ち寄ったり、中継基地として宿泊したのが金沢八景でした。
【長州ファイブによるイギリス渡航】
「長州ファイブ」とは江戸幕府から禁じられていた海外渡航を密航により決行した伊藤博文を含む長州藩出身の5人の若者たちのことです。彼らは欧米の近代文明を学び、帰国後に日本の近代化・工業化に尽力し、顕著な功績を残しました。
文久3年(1863年)5月12日、横浜から出港した長州ファイブはまず蒸気船に乗って上海へ向かいました。横浜港で彼らが乗船した場所は「仏蘭西波止場」(現在の山下公園付近)であったと伝えられています。
【明治憲法草案の起草地】
明治20年頃、伊藤博文は金沢八景の割烹旅館「東屋」や夏島の別荘で、伊藤巳代治、金子堅太郎、井上毅とともに明治憲法の草案作成を行いました。書類が盗難に遭ったことをきっかけに、草案作業は夏島の別荘に移され、完成に至ったと伝えられています。
このことから、金沢は日本近代憲政の出発点の一つともいえる歴史的な場所です。
【金沢八景での避暑・静養】
明治中期、伊藤博文は政務の激務から離れ、金沢八景をたびたび訪れて静養していました。金沢は当時から海と山に囲まれた風光明媚な地で、江戸時代から文人・墨客が多く訪れる保養地でもありました。伊藤博文は風光明媚な金沢の地を好み、明治31年(1898年)に茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘を建てました。(現在の「旧伊藤博文金沢別邸」)。
【明治天皇との関係と「会食所」の赤坂から金沢への移築計画】
会食所とは、宮中で賓客をもてなすための建物のことです。伊藤博文は明治天皇の側近として仕えた人物でもあります。赤坂御所のあった場所に新しく東宮御所を造営するにあたり、会食所は撤去されました。その後、建物は伊藤博文に下賜され、会食所を金沢別邸の隣接地に移築しようとし、土地の購入まで進んでいました。実際には金沢への移築計画は実現せず、金沢ではなく東京大井町の伊藤公邸内への移築となりました。
【金沢文庫再建への貢献】
鎌倉時代から歴史を持つ金沢文庫は、一時衰退して多くの書物が散逸していました。明治時代の入り、荒廃著しかった金沢文庫を知り、伊藤博文は、復興に協力できないかと横浜の生糸貿易商である平沼専蔵に寄付を持ち掛け、明治30年(1897年)の文庫再建に大きく貢献しました。彼が金沢文庫に寄贈した自らの蔵書や憲法関係資料の一部は、現在も同文庫に所蔵されています。
このように、伊藤博文にとって横浜・金沢は、心安らぐ別荘地であると同時に、日本の近代化における重要な政治的・文化的な活動の拠点でもあったのです。
旧伊藤博文金沢別邸(横浜市指定有形文化財)